どれだけ手を伸ばしても届かない...ってコト!?

「迷宮は、英語で言うと、ラビリンス」

さもありなん。兎角この世はなんとやら。兎だけにラビってみました。

 

人間という生き物は、まるで(形のない)言葉の、迷宮みたいなものだ。

 

千葉雅也は『勉強の哲学』で「リアルに存在するのは、モノ=物質の世界です。(中略)そこに、もう一つの次元として、言葉の世界が重なっている」と言った。これは言い換えると、自分が干渉できない”環境”としての世界が、(『秒速5センチメートル』風に言えば)「どうしようもなく横たわってい」るわけで、対してこれをどう捉えるかという”主観”の世界がまた別途あるということ。

 

常々思っていた。人はなぜ新しいものを買い、新しい体験を求めてお金を出すのだろう。そしてそれに満足を覚えることなく、際限なく、求め続けるのだろう。

ヨルシカの『風を食む』という歌の歌詞に「僕らは今日も買ってる 足りないものしかなくて」という一節がある。僕らには足りないものしかないから、話題の新商品や、人気のカフェを求め続ける。そして、去年の新商品はもう過去になった。先月行った人気のカフェとはまた別に、新しくできた”ユニークな”カフェに行きたくなっている。

 

 

さてここで、僕たちが求めている(らしき)何かは、実は「モノ=物質」の側にはないのではないか?正確には、「モノ=物質」の世界にあるはずの、僕たちが求めている(らしき)何かを、僕たちの「言葉の世界」が覆い尽くしているのではないか?

 

例えば屈折。

僕たちが求めているものは今水面下にあって、それを真っ直ぐに見つめている。

しかし言葉の世界が光を屈折させてしまい、それに到達することはない。

(ちなみにこの場合に言う「言葉」とは通常よりも広い意味で使っていて、明確に頭の中に思い浮かべることのない無意識の「気分」や「感覚」といったものも含めている。)

 

僕たちが手に入れたいと思っている「楽しさ」があるとして、それを求めてなにか物を買う。けれどもそれに対する僕らの気分は「憂鬱」なままで、その屈折のせいで、決して「楽しさ」に至ることはない。

 

 

上記は一例。

”何か”を手に入れるためにはまず、「言葉の世界」に手を入れる必要があるんじゃない?